卒業制作の足跡

卒業制作について、きっかけとなった12年前の「あの日」から、制作の苦労まで、幅広くまとめてみました。

「私は、私。」と言えるまでの旅路

***記事は更新中です。***

 

 

卒業制作展をご覧いただいた皆様、

WEB展をご覧いただいた皆様。

誠にありがとうございます。

また、この記事までご足労いただいたことに心から感謝申し上げます。

徒然なるままに書き散らしたものですが、

お付き合いいただけますと幸いです。

 

 

 

私は「あの日」と出会った

 

今回の作品のそもそもの始まりは、2011年3月11日に遡ります。

東日本大震災」と呼ばれるあの災害を、私は小学生の時に経験しました。

東京に住んでおり、ほぼ被害もなく、東北地方の方々と比べれば、当事者性は比べるまでもありません。

それなのになぜ、震災に強い関心を抱いているのか。

時々問いかけられてきた疑問ですが、私にとってみればかなりシンプルな話です。

「あの時感じた無力感が忘れられないから。」

 

また、原発事故や復興工事といった過程について報道を追いかけるうち、

大きな疑問を持つに至りました。

今振り返ると、震災後の復興の歩みは、私の中高時代という多感な時期と重なります。

高校時代は学校の融資行事を利用して、東北の漁村に通うようにもなりました。

 

 

 

 

非当事者という当事者性への気づき

 

大学入学とほぼ同時に、私は「東京スーダラ」というプロジェクトに参加しました。

アーティスト3人の活動に市民リサーチャーが伴走するという建て付けで、私はそのリサーチャーの1人として1年近くに及ぶ企画に関わりました。

https://setagaya-ldc.net/pickup/vol25/?page=1

 

身体表現パフォーマンスや展示なども行なった

私は個人の興味関心テーマとして「震災」を割り当てられ、「震災」についての考えを様々な方法で表現したり、たくさんの方に伝えたりする機会に多く恵まれました。

この経験は、その後にも通ずる、私にとって「震災」を見つめ直す大きな機会になりました。

 

活動の中でも特に記憶に残っているのは、「震災」について書いた文章を読んでもらった時のことでした。

「途中まではいい感じだったんだけど、最後になって急にいい話風になっちゃってるんだよね。

この調子だと、読んだ人は変に前向きな印象持っちゃうよ。

そうじゃないんじゃない?」

笑いながらも言葉を選んで伝えてくれたその人の言葉は、私にとっては初めてのものでした。

「整理のついていない複雑なものは、複雑なまま表現すればいいよ。」

そうやって私に笑いながら言ったのは、作家でアーティスト ー という肩書きらしい ー 瀬尾さんという人でした。

最後に「いい話風」に着地させることで、オチをつける作文の書き方を、私は無意識にやってしまっていたようなのです。でも、そうじゃなくていいらしい。

いい話にしなくてもいい、と言われて、私は苦しみながら文章を書き直しました。

オチのつけ方がわからず、ぐだぐだと後を引くような最後になりましたが、瀬尾さんはそうそうこれですよとそちらを採用しました。

 

今になって思えば、「震災」という個人的な体験を

 

 

 

「あの日」と出会い直す

 

東京スーダラで、多様な立場・年齢・職業の方のエピソードを聞く中で、印象に残った出来事がありました。

なんてことない食事の席で、参加者の方からこんな話を聞きました。

「安富さんにとっての『震災』は、私にとっての『9.11』ですね。」

この時は特に何か返した記憶はないのですが、後々になって、この言葉は私の中でふと思い出すものになりました。

 

私にとって印象に残っている日と、人にとって印象に残っている日は違うらしい。

何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、このことは私にとっては大きな事実でした。

 

震災のことを忘れてしまう社会に対して、ずっと怒ってきた。でも、私だって全てを記憶しているわけではなくて、誰かの大切な日を忘れて生きている。

事故や事件やあらゆる災害、語り継がなきゃいけないこと。そしてもっと個人的な、出会いや別れや記念日や、ほんのりと嬉しかったこと悲しかったこと。

私にとっての「震災」は、あくまでそれらと同列で語ることができるんじゃないのか。

私が一方的に語るような、私だけが「偉い」構図ではなく、私にとっての「震災」の話と誰かにとっての大切な記憶を交換するようなことができたらいい。

 

そうした思いで制作したのが、大学3年次課題の『アノヒ文庫』でした。

制作した『アノヒ文庫』。日付ごとにエピソードを分けて製本した。

 

 

 

 

4年生に進級して卒業制作のテーマを考えた時、わたしはやはり迷わず「震災」を選びました。

問題だったのはそれより一歩先、

「震災のどの部分を作品とするのか」「どんな表現方法で作品を制作するのか」という点でした。

 

「文字にするとどうしても重い話として捉えられてしまう」という懸念点は、東京スーダラの経験を経て続いていました。

教授からは

「安富さんは書くより話した方がいい」とアドバイスを受けました。

3年生の時から指導をしてくださっていた彼にとって、私の話し方は際立った特徴のひとつに感じられたらしく、作品の中でどこかしら声を使った方がいいと強く勧められました。

「安富さん自身が、前に出る作品にするといいんじゃないか。」

鶴の一声で、媒体は映像インスタレーションとしました。

 

 

この作品で何を伝えたい?何を表現したい?

そう聞かれて、私の口からはポンと言葉が出ていました。

 

「私以外の皆にとって、3.11が大事な日じゃなくなってもいい。皆が忘れてしまっても、私だけは絶対覚えてる。

それがわかってるから、もうそれでいいんです。」

伝えなきゃいけないことも、受け継がなきゃいけないことも、忘れてはいけないこともわかっている。

でも、何よりもまず、私は「あの日」をずっと忘れない。その事実が、私にとっては1番大事でした。

 

テーマは決まりました。

「”私にとっての”震災」。

被災地と呼ばれる地域の写真も、映像も、他の誰も登場しない。私の言葉を通してのみ、「震災」が表される作品。

大学4年間を通して、「震災」をテーマに何度もビジュアル表現をし続けてきた私だからこそ作れる、要素をギリギリまで削った答えに行きつきました。

 

 

 

 

『柔らかな舞台』との出会い …中間講評からブラッシュアップへ

12月、冬休み前最後の中間講評において、教授からいくつかの指摘を受けました。

その中で私にとって最も衝撃的だったのが、

「わかりやすすぎる」という意見でした。

 

その時発表したデモ映像では、本映像と同じように3人の私がそれぞれに話し続けた後、

最後に「私は、安富奏。」と声を合わせ発して終わるという作りでした。

オチとしてあまりにもわかりやすく提示しすぎだ、というのが、教授の指摘の趣旨だったわけです。

納得しつつも「どうしたものか」と思っていた私は、

「もっと現代美術作品や映像作品を見なさい」という言葉で、教授からの講評が締めくくられていたことを思い出しました。

 

こうしちゃいられない。

インターネットで映像作品展を開催している美術館を検索し、

東京都現代美術館の展覧会を見つけました。

 

 

 

『ウェンデリン・フォン・オルデンボルフ 柔らかな舞台』

オランダ出身の映像作家ウェンデリン・フォン・オルデンボルフによる、

インスタレーション構成の映像作品展です。

(2023年2月19日に会期終了。)

すぐ隣の展示室で、大評判のクリスチャン・ディオール展を開催中だったので、ご存じの方はあまり多くないかもしれません。

 

彼女の作品とこのタイミングで出会えたことは、大学生活でも1、2を争う幸運だったと今になって思います。

ジェンダーや人種などの社会課題を、人々の対話を通して真摯に描き出していく手法をとる作品達は、シンプルでありながら深みがあり、人々に思考を促します。

映像という手段を用いて「震災」に向かう私に多くの示唆を与えてくれました。

 

 

ここで言葉を尽くそうと映像作品の素晴らしさには遠く及ばないので、

現代美術館の公式ページをご紹介しておきます。

https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/Wendelien_van_Oldenborgh/

 

 

 

 

 

現代美術館で展示を見終えた後、私はインスピレーションに包まれて半ば放心状態でした。

しばらくロビーのソファに座ってぼーっと行き交う人を眺めた後、スマホのメモアプリを開き、一心不乱に原稿の書き直しを始めました。

あまりにも夢中になっていたせいで、ついでに観覧しようと思っていたコレクション展を完全に見逃しましたが、その時の私にとっては些細なことでした。

 

 

ウェンデリン・フォン・オルデンボルフから(勝手に)私が学んだことは、作品において、「説明」は必ずしも必要なものではないということです。

社会課題などをテーマにする時、作り手側は確実に伝えなければと説明過多になりがちです。

しかし人というのは案外、「これは何だろう」「この作品は何かを言おうとしているな」と感じれば、その正体を知ろうとするものです。

 

「説明しなきゃいけない、と思わなくていい。」

「わかりやすくしなくていい。」

 

後から気づいたことですが、教授から指摘されたこれらのことは、かつて瀬尾さんから言われたことでした。

「いい話にまとめなくていいよ。」

この言葉は、卒制を完成させる最後の一瞬まで、私を支える柱になりました。

 

現代美術館のロビーで書き直した原稿は、「震災」に限らず様々な事象に対しての私の考え方が表れるように意識して構成しました。

例えば、「私だって、何も知らないままでいられたら良かったと思います。」という言葉は、

「震災」に限らず、様々な社会トピックにアンテナを張る中で傷ついた経験も暗に示しながら表現しています。

複数のテキストを通して根底に流れる課題意識を浮き彫りにする、オルデンボルフの作品からインスピレーションを受け、直接的な表現以外も模索して辿り着きました。

私の人生の集大成であり通過点でもある「卒業制作」に合う文章になったのではと思います。

 

 

「これが私の卒制か」 …卒業制作追い込み

 

卒業制作の過程は、苦労を極めました。

 

まずは初めて使う音楽ソフトに四苦八苦。

MacBookに搭載されていたGarageBandを使用したのですが、音楽を作るという経験がほぼ皆無だったせいでやたらと手間取りました。

なぜか最初から「鉄琴っぽい音にしたい」というイメージだけはあったことで、霞を掴むような作業は免れたものの、操作自体は少しずつ慣れるしかありませんでした。

(初心者向きと名高いソフトでこの調子ですので、DTMなどを使いこなしている方には頭が下がります。)

曲自体は、「凝りすぎると話し声の邪魔になるため簡素なものに」とアドバイスを受けていたので、まだ粗が目立ちづらくて助かりましたが…。

 

 

インスタレーションとして発表する装置を作るため、木材を切った時には、これまた慣れない作業で手のひらにタコを作りました。

作業中にはめていた軍手の指部分に大きな穴が空いた時には、さすがにゾッとしたものです。

構造については父に相当の助言をもらい、近所のホームセンターに通い詰めて検討しました。

 

ちなみにですが、パネルを設置している木枠は組み立て式で、講評・審査・展示のたびにほぼ手で運んでいます。

木枠を解体した状態。木材をまとめて梱包し、会場で組み立てる。

 

 

 

そして何より苦しめられたのは、自分が話している姿を撮影する工程でした。

映像はほぼノーカットで、音量や光量以外はほぼ編集していません。

同時に話し出すところ、黙るところ、それぞれタイミングを合わせてキッチリ喋らなければいけません。

 

個人的に、話すことにはほとんど苦労したことがなく、今回の映像撮影も得意分野を活かした表現だと思っていました。

けれど、その期待は綺麗さっぱり裏切られました。

 

タイミングが合わずリテイク、噛んでリテイク、うまく進んだ時に限って込み上げてくる咳で結局リテイク、どこまで喋ったか咄嗟にわからなくなりリテイク……。

 

リテイクを繰り返すうち、

「もう喋りたくない……口から声を出したくない……。」と生気のない目でつぶやく程度には、追い詰められていきました。

卒業制作にアニメーションを選んだ友人が、「もう描きたくない」と言っていたのを笑っていたのは、完全に愚かな行いだったと思い知りました。

 

 

これが私の卒制なんだ。

絵を描きながら、何度も試し印刷を繰り返しながら、

立体造形と格闘しながら、すぐ固まるソフトに祈りながら、

皆が少しずつ卒制を完成へと積み上げていっているように、

私の卒制は、吐きそうになりながら喋り続けることで作り上げられていくんだ。

 

 

 

最終講評を経て、最終提出日、私は審査の場へと作品を送り出しました。

何時間もかけて丁寧に設営を終えた後、友人との会話の流れで、今回の作品のテーマを聞かれました。

「震災」と答えると、返ってきたのは

「ああ、やっぱり。」

え、やっぱり?

「だって、ずっと『震災』をテーマに作品作ってたじゃん。大学に入ってから。

よかったね、最後も『震災』で作れたんだ。」

 

うん。本当によかった。

私は、ずっと忘れずにいられた。

美大生としての出来は全くよくなかったけれど、こうして形にすることができた。

そのことを、よかったと言ってくれる人がいる。

ここから私はまた、進んでいける。

 

きっとこれからも、大丈夫だ。

 

 

 

卒業制作という名の、私の決意と覚悟を見届けていただき、ありがとうございました。

また、こんなに長々と書き綴ってきた下手な文章に最後までお付き合いいただいたことにも、心から感謝申し上げます。

私の作品と同じように並んでいた他の作品にも、それぞれの作者のそれぞれの決意と覚悟と苦労が込められています。

そのことに、思いを馳せていただければ幸いです。

 

私の「卒業」に至るひとつの旅路は、これでお終いです。

卒業後はデザインから一旦離れて、総合職に就く予定です。

クリエイティブから距離を置いても、「震災」とは関係のないところに行くように一見見えても、それでも私は胸を張って言えます。

どこに行こうとも。何をしようとも。

 

私は、安富奏。